(ゆ)優孟(ゆうもう)の衣冠

ゴンチ

2009年02月15日 23:40

「官僚の書いたシナリオを演じる俳優気取りなのだが,セリフが覚えられないんじゃとんだ大根役者だ。」

今日は俳優の語源である。

優孟の衣冠(ゆうもうのいかん):
外形をまねること。見た目はそっくりでも,実体は異なっていること。
優孟=春秋時代の楚(そ)の芸人
『楚の宰相(さいしょう)孫叔敖(そんしゅくごう)の死後,その子孫は貧困に苦しんでいた。そこでかつて孫叔敖に世話になっていた優孟が孫叔敖になりすまして王に会い,孫叔敖の業績と子孫の不遇を訴えた。王は,子孫に領地を与えたという。』史記
(新明解故事ことわざ辞典)

楚の王は荘王(紀元前614年 - 紀元前591年)で,鳴かず飛ばずの段で登場した春秋の覇者である。
優孟の迫真の演技を見てみよう。史記滑稽列傳からである。

『孫叔敖に変装した優孟が現れたときは,荘王もお付きの者も別人だとは思わなかった。
荘王は驚いて,優孟の前に祝いの酒を置き,
「生き返ったのであればまた宰相として仕えてほしい。」
と言った。
「妻と相談したいので三日だけお待ちいただきたい。」
と優孟が言い,荘王はそれを許した。三日後に結果を問われた優孟は,
「楚の宰相では足らないのですと,妻が慎みもなく言っておりますには,
孫叔敖は,楚の宰相として忠節を尽くし倹約を重ねて楚の国を治めました。
それで楚の王は覇者となられました。
孫叔敖が死んでその子らには立錐の地もなく(立身出世の道がなく),
自ら薪を背負い飲食にも事欠く貧しさです。

歌にもあるように,
「一所懸命に耕作しても,自分の口には入らない。
貪鄙(たんぴ)なお役人様がかすめとる。
本当に恥知らず。
家にはお宝いっぱいで,死んでも子らはお金持ち。
罪を犯したら,身は死んで家も滅ぶもの。
それでもまいない受けるのか。
貪(むさぼ)るお役人様は威張ってる。
廉(つつまし)いお役人様のために歌いましょう。
法をまもって職をまもって,死んでも悪いことはしなかった。
孫叔敖は何も残さず死んだ,だから妻子は食うにも困る。」
このように,楚の宰相では足らないのです。...』

(貪鄙:欲張りで心がいやしい,現代の言葉で言うとさもしいである)

優孟の命がけの交渉で,孫叔敖の子供たちには封戸が与えられ,孫叔敖を祀ることができるようになった。
この交渉の優れたところは,
残された妻子の困窮は,孫叔敖が清廉潔白な政治家であったために起こっていること。
そして,その政治家の手腕によって交渉相手(荘王)が覇者となれたこと。
(さらに,家が貧しいために死んだ自分を祀ることができず,成仏できずに幽霊として戻ってきたこと。)
の論理に一貫性があることである。

優孟にとっては,官僚の天下りや渡りも貪りのひとつだろう。
国民の税金を特定の業者に分配し,その見返りとして私腹を肥やすからだ。

さて,冒頭の文にもどろう。
大根役者はとうとう劇場のオーナーに怒られた,というより嗤(わら)われたが,
叱咤激励の声援と受け止めているようだ。
シニカルな政治劇がコミカルになってしまった。
優孟であればどうクライマックスにつなげるのだろうか。

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【楚相孫叔敖知其賢人也,善待之。病且死,屬其子曰:“我死,汝必貧困。若往見優孟,言我孫叔敖之子也。”居數年,其子窮困負薪,逢優孟,與言曰:“我,孫叔敖子也。父且死時,屬我貧困往見優孟。”優孟曰:“若無遠有所之。”即為孫叔敖衣冠,抵掌談語。歲餘,像孫叔敖,楚王及左右不能別也。莊王置酒,優孟前為壽。莊王大驚,以為孫叔敖復生也,欲以為相。優孟曰:“請歸與婦計之,三日而為相。”莊王許之。三日后,優孟復來。王曰:“婦言謂何?”孟曰:“婦言慎無為,楚相不足為也。如孫叔敖之為楚相,盡忠為廉以治楚,楚王得以霸。今死,其子無立錐之地,貧困負薪以自飲食。必如孫叔敖,不如自殺。”因歌曰:“山居耕田苦,難以得食。起而為吏,身貪鄙者餘財,不顧恥辱。身死家室富,又恐受賕枉法,為姦觸大罪,身死而家滅。貪吏安可為也!念為廉吏,奉法守職,竟死不敢為非。廉吏安可為也!楚相孫叔敖持廉至死,方今妻子窮困負薪而食,不足為也!”於是莊王謝優孟,乃召孫叔敖子,封之寢丘四百戶,以奉其祀。后十世不絕。此知可以言時矣。】史記滑稽列傳


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