2009年02月21日

(も)木鷄(もっけい)

「木鷄のごとく泰然自若を装っているが,内心は失言しないかドキドキなんだろうな。」

木鷄(もっけい)
①木製の闘鶏。②真に強い者は敵に対して少しも動じないことのたとえ。出典:荘子達生(Yahoo!辞書 大辞林)

『紀渻子(きせいし)は,王のために闘鶏を訓練することになった。
十日後に王が問う。
「使えるようになったか?」
「まだでございます。今はから元気で威張っているところです。」
十日後また問う。
「いや,まだでございます。すぐとびかかろうとします。」
十日後また問う。
「いや,まだでございます。まだ睨みつけて怒っております。」
十日後また問う。
「もうそろそろよいでしょう。周囲が騒いでも全く動じません。
まるで木彫りの鶏のようで,徳が全身に充実しております。
他の鶏はとびかかることもできず,一目見るなり逃げて行きます。」..』

王が持っていた闘鶏だからもともと力は強かったのだろう。
紀渻子は鶏に戦う技術ではなく精神面の充実を教えたということである。
荘子は,人についても同様に書いている。

『顏淵(がんえん)は孔子(こうし)に尋ねる。
「舟を漕(こ)ぐ術は学べるのかについて,
泳(およ)ぎの上手な者であれば何回か繰り返せば漕げるようになり,
潜(もぐ)りの達人であればすぐに漕げるようになる,
と聞きましたがどういうことでしょうか?」
孔子が答えた。
「泳ぎの上手な者は,水のかき方が巧みですぐに慣れるからだ。
潜りの達人は,水に恐れがないから深い淵でも陸上と変わらない動きができるからだ。
たとえば,物を賭けて弓を競うときには,賭ける物ががらくたなら上手に当たるだろう。
しかし,黄金を賭けるとなると心が乱れてなかなか当たらない。
技量は同じでも外物に心が傾くのである。」...』

剣豪の宮本武蔵は,不動心を問われて敷居の上を歩いて見せた。
もし,下が畳ではなく千尋の谷であれば同様に歩けるか?
外物に心が傾くことのない達人の境地である。

木鷄は,いかなることにも心を乱されず,不断の努力で体得した境地である。
無気力,無責任,無感動..その果ての厚顔無恥とは似て非なるものである。
困窮に喘ぐ国民が注視する国会で,舟を漕ぐような選挙の達人は不用である。


同じカテゴリー(故事成語)の記事画像
(を)温故知新
(ほ)本末顚倒
つれづれなるままに書き始めてみます
同じカテゴリー(故事成語)の記事
 (京)驚天動地(きょうてんどうち) (2009-02-24 22:02)
 (す)隋珠和璧(ずいしゅかへき) (2009-02-23 23:29)
 (せ)井蛙(せいあ),千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ (2009-02-22 23:32)
 (ひ)貧時(ひんじ)の交わり (2009-02-20 21:36)
 (ゑ)遠慮なければ近憂(きんゆう)あり (2009-02-19 23:41)
 (し)鹿を指して馬と為す (2009-02-18 23:14)


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。