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Posted by 滋賀咲くブログ at

2009年02月19日

(ゑ)遠慮なければ近憂(きんゆう)あり

「一枚岩だと思っていたが,言うことに遠慮がなくなってきてぶっ潰されるのも間近だな。」

遠慮なければ近憂(きんゆう)あり:
目先のことばかりにとらわれて,将来のことを考えないでいると,必ず身近な心配事が起こるものだということ。出典:論語
遠慮=遠い将来まで見通した深い考え。
近憂=身近な憂い事。
(新明解故事ことわざ辞典)

もっともらしいありがたい言葉であるが,摩訶不思議な推論である。
もし,遠慮が将来の考えで近憂が身近な憂いであれば,
時間的な原因-結果の推論としては,

近憂あれば遠慮なし(身近な心配事に忙殺されて,将来の事を考える余裕がない)

あるいは,

遠慮あれば近憂なし(いわゆる備えあれば憂いなし)

の時間的経過となるはずである。
全文を解釈して確認してみる。

『衛(えい)の霊公(れいこう)の誘いを断り,孔子(こうし)一行はまた流浪の旅へ出た。
食糧が底を突き,動けなくなる者もでた。
弟子の子路(しろ)が孔子に「君子でも困窮することがあるのか」と尋ねる。
孔子は「君子でも困窮する。しかし小人と違うのは困窮しても乱れないことである」
...
孔子が言う。
「私はただ一つの事を貫いているだけなのだ。」
...
孔子が言う。
「語るに値する人と語らなければ,その人を失う。語るに値しない人と語るのは,言葉の無駄である。知者は人を失わず,言葉も無駄にしない」
...
子貢(しこう)が仁について尋ねた。孔子は,
「工人が良い仕事をするためには,まず道具を研ぐ。もし,この国に留まるのであれば,大臣に仕えて仁徳のある友人を作ることだ」と答えた。
顔淵(がんえん)が治国の方法を尋ねた。孔子は,
「夏の暦を用い,殷の馬車に乗り,周の礼服を着て,韶舞(しょうぶ)を演奏することだ。鄭声(ていせい:鄭の音楽)を禁止して,佞人(ねいじん:口先だけの者)を遠ざけよ。鄭声は淫らで,佞人は国を危うくする」と答えた。』

その後に続くのが【子曰,人無遠慮,必有近憂。】である。

文脈からは,
「人は遠ざかって慮(おもんばか)ることがなければ,必ず憂(うれ)いに近づくであろう」
が,ふさわしい。
俗世から距離を置くことで孤高を全うする態度表明である。
つまり,遠慮なければ近憂ありとは,時間ではなく距離の問題なのである。

それで初めて,他人に対して言動を控えめにする「遠慮」のもう一つの意味を導くのだ。  


Posted by ゴンチ at 23:41Comments(0)故事成語

2009年02月18日

(し)鹿を指して馬と為す

「馬鹿なのか阿呆なのか2兆円ぽっちで悪だくみを緊急経済対策だと言いはっている。」

文字どおり馬鹿の語源である。
しかし,もともとは下臣に欺かれた悲運の王の物語である。

鹿(しか)を指(さ)して馬(うま)と為(な)す:
理に合わない間違ったことを,権力をもってむりやりに押し通すことのたとえ。
『秦(しん)の宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が,始皇帝(しこうてい)の没後,幼少の二世皇帝に,鹿を馬といって献上した。二世皇帝は笑ってまわりの者に「鹿であろう」と言ったが,群臣は趙高の権力を恐れて黙ってしまったり,「馬です」と相槌(あいづち)をうったりした。「鹿です」と言った者は趙高によりあとでひそかに処刑された。』史記
(新明解故事ことわざ辞典)

趙高は,始皇帝が行幸中に病死するとその遺言を書き換えて,太子の扶蘇を自決に追い詰め末子の胡亥を二世皇帝に即位させた。 趙高は,阿呆の語源とも言われる阿房宮の大規模な増築を進めて,人民に過重な労役を課した。秦帝国に対する反乱が全国に広がり,劉邦の軍勢が迫ってきたときに起こった事件がこの「鹿を指して馬と為す」である。そして,反対派を抑え込んだ趙高は,二世皇帝を殺し人望の厚い子嬰を三世皇帝に擁立したが,子嬰によって趙高は一族もろとも誅殺された。

阿呆が馬鹿を画策したおかげで,550年間の春秋戦国時代に終止符を打ち中国全土を統一した秦帝国はわずか15年で滅んだ。一人の奸臣が偉業を台無しにしたのである。

さて,冒頭の文にもどろう。
与党の党首は自党からも批判されている定額給付金に固執している。
その理由は,その後ろに奸臣たちの大きな悪だくみを隠しているからである。
(悪だくみの内容は安に居いて危を思う矛盾を参照のこと)
趙高が何人もいてはいかに聖君でも阿呆の振りをするのは致し方ない。
しかし,堂に入った馬鹿ぶりである。  


Posted by ゴンチ at 23:14Comments(0)故事成語

2009年02月17日

(み)三たび吾(わ)が身を省(かえり)みる

三たび吾(わ)が身を省みる:
一日に何度も自分の言動を反省すること。「三省(さんせい)」ともいう。
孔子(こうし)の弟子の曾子(そうし)のことば。
『吾,日に三たび吾が身を省みる。
人の為に謀(はか)りて忠ならざるか,
朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか,
習わざるを伝えしか。
(人の世話で真心が足りないことはなかったか,
友だちづきあいで信義に欠けることはなかったか,
先生の受け売りで人に教えたことはなかったか)』論語
(新明解故事ことわざ辞典)

それぞれが反省を行えば,これほど気持のよい社会はないであろう。
新明解故事ことわざ辞典の出版社「三省堂」の社名の由来ともなっている。
仁義忠信は,儒家の理想とする態度である。

しかし,道家の荘子はこのような態度を批判している。
『仁義忠信(じんぎちゅうしん)を語り,恭儉推讓(きょうけんすいじょう)するは,修(しゅう)を為すのみ。..仁義無くして修(おさ)めれば..忘れざる無きなり。有らざる無きなり..此れ天地の道,聖人の徳なり。
(仁義や忠信を言い,わが身をつつしみ人を推(お)してへりくだるのは,自分を修養するすることに専念するということである。..仁義を口にせずとも身が修まれば..心身をわずらわす一切のものを忘れ去り,すべての物が備わることになる..これこそが天地自然の道であり,聖人の徳というものである。)』
(明治書院新書漢文大系荘子,市川安司・遠藤哲夫)

忠信など反省することが心身を煩わすもとになり,逆に忠信が備わることを阻害するというのである。
それらを超越したところに道(どう)があり,徳(とく)があるというのが荘子の論理なのだ。
仁・義・忠・信・道・徳どのひとつも身につけるには難しい。
「習わざるを伝えしか。」とのお叱りを大いに受けそうである。

恭儉(きょうけん):人に対してうやうやしく,行いは慎み深いこと
推讓(すいじょう):人を推しあげて,自らは譲ること
(広辞苑)

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【語仁義忠信,恭儉推讓,為修而已矣..無仁義而修..無不忘也,無不有也..此天地之道,聖人之德也。】荘子外篇刻意  


Posted by ゴンチ at 20:22Comments(0)故事成語

2009年02月16日

(め)面従(めんじゅう)

「面従腹背(めんじゅうふくはい)は官僚のお家芸だった筈だが,最近は反抗的だね。相当こたえてるんじゃないか?」

面従腹背(めんじゅうふくはい):
うわべだけは服従しているように見せかけて,内心では従わずに反抗していること。
(新明解故事ことわざじてん)

「腹背」以外にも「面従」につく「背」と「腹」は多い。
__背否(はいひ),背毀(はいき),腹誹(ふくひ),
背がつくときは,面を「顔を向ける」意味ととり,
腹がつくときは,面を「表情に出す」意味にとっているようだ。
どちらも「見えない」ということで一致している。
「腹背」とは背を向けて,腹の中でと,陰湿さは最高潮である。

面従の語源は夏(か:紀元前2070年)にさかのぼる。

面従後言(めんじゅうこうげん):
その人の面前では服従するように見せかけて,かげでは悪口を言うこと。
面従=人の前でだけ服従すること。
後言=かげで非難すること。
舜(しゅん)帝が,臣の禹(う)に言ったことば。出典には,
『予(われ)違わば汝(なんじ)弼(たすけよ)。
汝,面従し退(しりぞ)きて後言(こうげん)有(あ)ることなかれ。
(私が道にそむいたら,お前はそれを正して私を助けてくれ。
私の前では服従し,かげで私を非難するようなことはするな。)』書経
(新明解故事ことわざじてん)

禹は,『禹行(うこう)』の語源ともなっている,中国全土の灌漑・治水を行った夏王朝の始祖である。
『職務のため13年間1度も家に戻ることなく全国を駆け回り,自宅の前を通りかかっても休息すらしなかった。』
ほどの人物でさえ,「面従後言」を疑われた。
だが禹は,自らの行(ぎょう:おこない)によって,それを払しょくしたのだ。 

さて,冒頭の文にもどろう。
天下り渡りの親玉から,居酒屋タクシーの小者まで,駆け回りに行儀の悪いものが勢ぞろいである。
隠れた「腹背」どころか目に余る。
しかし中には「禹行」を旨とする憂国の志も居るに違いない。
彼らが自ら悪人を退治し,行いによって信頼を回復することを切望するのである。  


Posted by ゴンチ at 22:45Comments(0)故事成語

2009年02月15日

(ゆ)優孟(ゆうもう)の衣冠

「官僚の書いたシナリオを演じる俳優気取りなのだが,セリフが覚えられないんじゃとんだ大根役者だ。」

今日は俳優の語源である。

優孟の衣冠(ゆうもうのいかん):
外形をまねること。見た目はそっくりでも,実体は異なっていること。
優孟=春秋時代の楚(そ)の芸人
『楚の宰相(さいしょう)孫叔敖(そんしゅくごう)の死後,その子孫は貧困に苦しんでいた。そこでかつて孫叔敖に世話になっていた優孟が孫叔敖になりすまして王に会い,孫叔敖の業績と子孫の不遇を訴えた。王は,子孫に領地を与えたという。』史記
(新明解故事ことわざ辞典)

楚の王は荘王(紀元前614年 - 紀元前591年)で,鳴かず飛ばずの段で登場した春秋の覇者である。
優孟の迫真の演技を見てみよう。史記滑稽列傳からである。

『孫叔敖に変装した優孟が現れたときは,荘王もお付きの者も別人だとは思わなかった。
荘王は驚いて,優孟の前に祝いの酒を置き,
「生き返ったのであればまた宰相として仕えてほしい。」
と言った。
「妻と相談したいので三日だけお待ちいただきたい。」
と優孟が言い,荘王はそれを許した。三日後に結果を問われた優孟は,
「楚の宰相では足らないのですと,妻が慎みもなく言っておりますには,
孫叔敖は,楚の宰相として忠節を尽くし倹約を重ねて楚の国を治めました。
それで楚の王は覇者となられました。
孫叔敖が死んでその子らには立錐の地もなく(立身出世の道がなく),
自ら薪を背負い飲食にも事欠く貧しさです。

歌にもあるように,
「一所懸命に耕作しても,自分の口には入らない。
貪鄙(たんぴ)なお役人様がかすめとる。
本当に恥知らず。
家にはお宝いっぱいで,死んでも子らはお金持ち。
罪を犯したら,身は死んで家も滅ぶもの。
それでもまいない受けるのか。
貪(むさぼ)るお役人様は威張ってる。
廉(つつまし)いお役人様のために歌いましょう。
法をまもって職をまもって,死んでも悪いことはしなかった。
孫叔敖は何も残さず死んだ,だから妻子は食うにも困る。」
このように,楚の宰相では足らないのです。...』

(貪鄙:欲張りで心がいやしい,現代の言葉で言うとさもしいである)

優孟の命がけの交渉で,孫叔敖の子供たちには封戸が与えられ,孫叔敖を祀ることができるようになった。
この交渉の優れたところは,
残された妻子の困窮は,孫叔敖が清廉潔白な政治家であったために起こっていること。
そして,その政治家の手腕によって交渉相手(荘王)が覇者となれたこと。
(さらに,家が貧しいために死んだ自分を祀ることができず,成仏できずに幽霊として戻ってきたこと。)
の論理に一貫性があることである。

優孟にとっては,官僚の天下りや渡りも貪りのひとつだろう。
国民の税金を特定の業者に分配し,その見返りとして私腹を肥やすからだ。

さて,冒頭の文にもどろう。
大根役者はとうとう劇場のオーナーに怒られた,というより嗤(わら)われたが,
叱咤激励の声援と受け止めているようだ。
シニカルな政治劇がコミカルになってしまった。
優孟であればどうクライマックスにつなげるのだろうか。

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【楚相孫叔敖知其賢人也,善待之。病且死,屬其子曰:“我死,汝必貧困。若往見優孟,言我孫叔敖之子也。”居數年,其子窮困負薪,逢優孟,與言曰:“我,孫叔敖子也。父且死時,屬我貧困往見優孟。”優孟曰:“若無遠有所之。”即為孫叔敖衣冠,抵掌談語。歲餘,像孫叔敖,楚王及左右不能別也。莊王置酒,優孟前為壽。莊王大驚,以為孫叔敖復生也,欲以為相。優孟曰:“請歸與婦計之,三日而為相。”莊王許之。三日后,優孟復來。王曰:“婦言謂何?”孟曰:“婦言慎無為,楚相不足為也。如孫叔敖之為楚相,盡忠為廉以治楚,楚王得以霸。今死,其子無立錐之地,貧困負薪以自飲食。必如孫叔敖,不如自殺。”因歌曰:“山居耕田苦,難以得食。起而為吏,身貪鄙者餘財,不顧恥辱。身死家室富,又恐受賕枉法,為姦觸大罪,身死而家滅。貪吏安可為也!念為廉吏,奉法守職,竟死不敢為非。廉吏安可為也!楚相孫叔敖持廉至死,方今妻子窮困負薪而食,不足為也!”於是莊王謝優孟,乃召孫叔敖子,封之寢丘四百戶,以奉其祀。后十世不絕。此知可以言時矣。】史記滑稽列傳  


Posted by ゴンチ at 23:40Comments(0)故事成語