2009年02月17日
(み)三たび吾(わ)が身を省(かえり)みる
三たび吾(わ)が身を省みる:
一日に何度も自分の言動を反省すること。「三省(さんせい)」ともいう。
孔子(こうし)の弟子の曾子(そうし)のことば。
『吾,日に三たび吾が身を省みる。
人の為に謀(はか)りて忠ならざるか,
朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか,
習わざるを伝えしか。
(人の世話で真心が足りないことはなかったか,
友だちづきあいで信義に欠けることはなかったか,
先生の受け売りで人に教えたことはなかったか)』論語
(新明解故事ことわざ辞典)
それぞれが反省を行えば,これほど気持のよい社会はないであろう。
新明解故事ことわざ辞典の出版社「三省堂」の社名の由来ともなっている。
仁義忠信は,儒家の理想とする態度である。
しかし,道家の荘子はこのような態度を批判している。
『仁義忠信(じんぎちゅうしん)を語り,恭儉推讓(きょうけんすいじょう)するは,修(しゅう)を為すのみ。..仁義無くして修(おさ)めれば..忘れざる無きなり。有らざる無きなり..此れ天地の道,聖人の徳なり。
(仁義や忠信を言い,わが身をつつしみ人を推(お)してへりくだるのは,自分を修養するすることに専念するということである。..仁義を口にせずとも身が修まれば..心身をわずらわす一切のものを忘れ去り,すべての物が備わることになる..これこそが天地自然の道であり,聖人の徳というものである。)』
(明治書院新書漢文大系荘子,市川安司・遠藤哲夫)
忠信など反省することが心身を煩わすもとになり,逆に忠信が備わることを阻害するというのである。
それらを超越したところに道(どう)があり,徳(とく)があるというのが荘子の論理なのだ。
仁・義・忠・信・道・徳どのひとつも身につけるには難しい。
「習わざるを伝えしか。」とのお叱りを大いに受けそうである。
恭儉(きょうけん):人に対してうやうやしく,行いは慎み深いこと
推讓(すいじょう):人を推しあげて,自らは譲ること
(広辞苑)
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【語仁義忠信,恭儉推讓,為修而已矣..無仁義而修..無不忘也,無不有也..此天地之道,聖人之德也。】荘子外篇刻意
一日に何度も自分の言動を反省すること。「三省(さんせい)」ともいう。
孔子(こうし)の弟子の曾子(そうし)のことば。
『吾,日に三たび吾が身を省みる。
人の為に謀(はか)りて忠ならざるか,
朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか,
習わざるを伝えしか。
(人の世話で真心が足りないことはなかったか,
友だちづきあいで信義に欠けることはなかったか,
先生の受け売りで人に教えたことはなかったか)』論語
(新明解故事ことわざ辞典)
それぞれが反省を行えば,これほど気持のよい社会はないであろう。
新明解故事ことわざ辞典の出版社「三省堂」の社名の由来ともなっている。
仁義忠信は,儒家の理想とする態度である。
しかし,道家の荘子はこのような態度を批判している。
『仁義忠信(じんぎちゅうしん)を語り,恭儉推讓(きょうけんすいじょう)するは,修(しゅう)を為すのみ。..仁義無くして修(おさ)めれば..忘れざる無きなり。有らざる無きなり..此れ天地の道,聖人の徳なり。
(仁義や忠信を言い,わが身をつつしみ人を推(お)してへりくだるのは,自分を修養するすることに専念するということである。..仁義を口にせずとも身が修まれば..心身をわずらわす一切のものを忘れ去り,すべての物が備わることになる..これこそが天地自然の道であり,聖人の徳というものである。)』
(明治書院新書漢文大系荘子,市川安司・遠藤哲夫)
忠信など反省することが心身を煩わすもとになり,逆に忠信が備わることを阻害するというのである。
それらを超越したところに道(どう)があり,徳(とく)があるというのが荘子の論理なのだ。
仁・義・忠・信・道・徳どのひとつも身につけるには難しい。
「習わざるを伝えしか。」とのお叱りを大いに受けそうである。
恭儉(きょうけん):人に対してうやうやしく,行いは慎み深いこと
推讓(すいじょう):人を推しあげて,自らは譲ること
(広辞苑)
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【語仁義忠信,恭儉推讓,為修而已矣..無仁義而修..無不忘也,無不有也..此天地之道,聖人之德也。】荘子外篇刻意