2009年02月22日
(せ)井蛙(せいあ),千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ
「井の中の蛙と笑われようとも書き続ける。いつの日か蟻の穴から堤も崩れるだろうことを信じて。」
井蛙(せいあ):
知識や見聞の狭いことのたとえ。また,自分だけの狭い知識や見解にとらわれて,他に広い世界があることを知らないで,得意になって振舞うたとえ。小さな井戸の中にすむ蛙は,大きな海のあることを知らないという意から。世間知らず,独りよがりをいましめるときに用いられることが多い。
『井蛙(せいあ)は以て海を語るべからざるは,虚に拘(かかわ)ればなり。
(井戸の蛙に海の話をしてもわからないのは,蛙が井戸という狭い居場所にとらわれているからだ。)』荘子
(新明解故事ことわざ辞典)
千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ:
小さな欠陥やちょっとした油断がもとで大きな失敗や損害を引き起こすということのたとえ。堅固に築いた堤も,蟻が作った小さな穴から崩れることから。
『千丈(せんじょう)の堤も,螻螘(ろうぎ)の穴を以て漏れ,百尋(ひゃくじん)の屋(おく)も,突隙(とつげき)の熛(へう)を以て焚(や)く。
(千丈の高さの堤も,おけらや蟻の作った穴から壊れ,百尋の高さの家も煙突の隙間から出る火の粉で焼けてしまう)』淮南子人閒訓
(新明解故事ことわざ辞典,ただし出典は淮南子とした)
「井蛙」の続きを読んでみよう。荘子秋水の前段を要約する。
『..夏の虫に氷の事を話してもわからないのは,自分が生きている季節だけが時だと思っているからである。
地方の人に国家の政道を話してもわからないのは,卑俗な因習に束縛されているからである。..
さて,この世の中で水の最も大なるものは海である。海にはすべての川という川が流れ込んで永久に止まることがないが,それで溢れることはない。しかし,その大きさを優れたものだと考えないのは自分が小さいからなのである。..
物の量というものは限定できないものであり,時間は流れて止まることがない。物の分限は常に変化して,事の終始は循環するものでどれが元だということがない。..
細小なものからは巨大なものを見尽くすことができず,巨大なものからは細小なものを見分けることは難しい。そもそも精とは細小なものの更に微細なものをいい,粗とは巨大なもののさらに盛大なものをいう。..』
(参考:明治書院新釈漢文大系荘子下)
見ること,知ることの限界を述べており,絶望感さえ漂う。
しかし,あることを知っているがその全体を知らないというのが,学びの原点である。
「千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ」の続きも読んでみよう。
『..人は大きな山に躓(つまず)くことはないが,小さな蟻塚には躓く。小害を軽視し微事をおろそかにして後悔することが多く,心配事が起きてからあれこれと悩む。あたかも病人が危篤になってから良医を探すようなものである。..
そもそも人が禍(わざわい)にかかるのは,その人自らがこれを生み出しているのであり,人が福を得るのは,その人自らがこれを成し遂げているのである。..
それゆえ,知恵をはたらかせることこそが禍福の門戸であり,動静を見極めることこそが利害の枢機なのである。これをわきまえれば,百事の変化,国家の治乱も居ながらにしてつかむことができる。..』
(参考:明治書院新釈漢文大系淮南子下)
このあと塞翁が馬の逸話に続く。
知恵を働かせて,動静を見極めることが禍を福に転ずる方法のようである。
故事成語シリーズも今日を含めてあと3回で完成である。
限られた知識と知恵で政治の禍を論評する愚を重ねてきた。
黙って放置すれば更に大きな障壁になることを心配している。
立ちはだかる巨大な壁に蟻の一穴を空けられたか,気がかりである。
井蛙(せいあ):
知識や見聞の狭いことのたとえ。また,自分だけの狭い知識や見解にとらわれて,他に広い世界があることを知らないで,得意になって振舞うたとえ。小さな井戸の中にすむ蛙は,大きな海のあることを知らないという意から。世間知らず,独りよがりをいましめるときに用いられることが多い。
『井蛙(せいあ)は以て海を語るべからざるは,虚に拘(かかわ)ればなり。
(井戸の蛙に海の話をしてもわからないのは,蛙が井戸という狭い居場所にとらわれているからだ。)』荘子
(新明解故事ことわざ辞典)
千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ:
小さな欠陥やちょっとした油断がもとで大きな失敗や損害を引き起こすということのたとえ。堅固に築いた堤も,蟻が作った小さな穴から崩れることから。
『千丈(せんじょう)の堤も,螻螘(ろうぎ)の穴を以て漏れ,百尋(ひゃくじん)の屋(おく)も,突隙(とつげき)の熛(へう)を以て焚(や)く。
(千丈の高さの堤も,おけらや蟻の作った穴から壊れ,百尋の高さの家も煙突の隙間から出る火の粉で焼けてしまう)』淮南子人閒訓
(新明解故事ことわざ辞典,ただし出典は淮南子とした)
「井蛙」の続きを読んでみよう。荘子秋水の前段を要約する。
『..夏の虫に氷の事を話してもわからないのは,自分が生きている季節だけが時だと思っているからである。
地方の人に国家の政道を話してもわからないのは,卑俗な因習に束縛されているからである。..
さて,この世の中で水の最も大なるものは海である。海にはすべての川という川が流れ込んで永久に止まることがないが,それで溢れることはない。しかし,その大きさを優れたものだと考えないのは自分が小さいからなのである。..
物の量というものは限定できないものであり,時間は流れて止まることがない。物の分限は常に変化して,事の終始は循環するものでどれが元だということがない。..
細小なものからは巨大なものを見尽くすことができず,巨大なものからは細小なものを見分けることは難しい。そもそも精とは細小なものの更に微細なものをいい,粗とは巨大なもののさらに盛大なものをいう。..』
(参考:明治書院新釈漢文大系荘子下)
見ること,知ることの限界を述べており,絶望感さえ漂う。
しかし,あることを知っているがその全体を知らないというのが,学びの原点である。
「千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ」の続きも読んでみよう。
『..人は大きな山に躓(つまず)くことはないが,小さな蟻塚には躓く。小害を軽視し微事をおろそかにして後悔することが多く,心配事が起きてからあれこれと悩む。あたかも病人が危篤になってから良医を探すようなものである。..
そもそも人が禍(わざわい)にかかるのは,その人自らがこれを生み出しているのであり,人が福を得るのは,その人自らがこれを成し遂げているのである。..
それゆえ,知恵をはたらかせることこそが禍福の門戸であり,動静を見極めることこそが利害の枢機なのである。これをわきまえれば,百事の変化,国家の治乱も居ながらにしてつかむことができる。..』
(参考:明治書院新釈漢文大系淮南子下)
このあと塞翁が馬の逸話に続く。
知恵を働かせて,動静を見極めることが禍を福に転ずる方法のようである。
故事成語シリーズも今日を含めてあと3回で完成である。
限られた知識と知恵で政治の禍を論評する愚を重ねてきた。
黙って放置すれば更に大きな障壁になることを心配している。
立ちはだかる巨大な壁に蟻の一穴を空けられたか,気がかりである。